119年ほど前の4月3日、日本からはじめての南米移住者たちがペルーに到着した。日本人がペルーに移住していったきっかけは、1893年ペルーと日本間に通商条約が改定され、室田義文メキシコ公使がペルーの公使も兼ねることにはじまる。

彼がペルーへ日本人を移住させることについての調査を詳しく行い、当時移民についての事業を一手に受けていた森岡商会が、ペルーに田中貞吉を派遣し、ペルー国内の農場主と日本人農業労働者との契約を取り付け、1899年2月27日に、最初の邦人790人が日本からペルーへサクラ丸で向かったのだった。

しかし、到着した彼らを待っていたのは、豊かで理想的な新天地ではなかった。長い航海の末、過酷な労働と風土病、厳しい生活から、初期に到着した日本人は、ほとんど志半ばにして、亡くなってしまったという。
サクラ丸がカヤオ(Callao)の港につき、その地をはじめて踏んだ日本人は、どのような思いでいたのだろうか。

戦後の経済復興により、世界中で有数の経済大国になっている日本だが、アジア諸国への植民地化、それ以前の国をあげての移住計画を勧めた陰には、国内のどうしようもない経済打撃があった。

時代が変わり、終戦後日本は、目覚しい勢いで経済発展を続けることになる。
1980年代になり、日本経済が上昇すると、過去とは逆に仕事を求めて日本へとやってくる外国人が多くなった。バブル期の日本には、多くの日系人移住者の子孫が日本に来ている。ペルーからは、アラン・ガルシア政権での経済崩壊によるハイパイーインフレのために、日本へと行く必要に迫られた人達も多い。

ある人にとっては、自分のアイデンティティである祖国での成功を夢見て、またあるものは、経済的な成功のために日本へとやってきている。

ところで、こんな歴史があったことを、日本では知る機会があまりない。
アメリカで第二次世界大戦時に、日系人を強制的にキャンプと言う名の強制収容所に移住させ、わずかな財産を残したほかは全てを奪ったことは、アメリカ日系人の謝罪請求の勝訴によって広く知られることになった。しかし、実はペルーでも同じことが起きていたのだ。移住から半世紀経った、戦時中に、せっかく築いたペルーでの地位や財産も、強制的に奪われる結果になったのだ。
残念なことに、アメリカ系日系人の訴えについては、損害賠償が認められているのに対して、ペルーから強制的にキャンプ送りになった人に対して、アメリカ政府は対象としていない。解放後も、ペルーに戻ることができず、日本に行くしかない人たちも大勢いたのだ。
フジモリ大統領が誕生したことで、にわかに日本人にとって、日本人であることの誇りを意識したり、日系人という歴史に目を向ける機会ができたが、そのたどってきた道に、市井の人の生活に、関心を持つ機会がないことがとても残念だ。
日本にいると、感じることのないアイデンティティを、外にいると余計に知ることになる。そこにあるのは、人生の答えでもなし、喜びごとのきっかけでもない。経済面だけが強調されて、日本人を語れることが、他国では多いが、日系人のたどった道を知るとき、日本人のもつ底力、たくましさ、進取の気質を知ることができ、世界が限りなく自分に開かれている気持ちにさせてくれはしないか?
フジモリ大統領の後、トレド大統領の時の冬の時代を経て、第二アラン・ガルシア大統領時代には、またペルーと日本の関係が近づいた。

2016年に安倍首相がペルーを訪れ、前クチンスキー大統領との会談御、日本からの移住120周年記念にあたる2019年を「日本ペルー交流年」にすると宣言したことは、記憶にあたらしい。
そして、本年度からは、日系4世の若者が日本で就労できる新たな在留制度を創設する。
ペルーには、約9万近くの日系人が暮らし、日本にも約5万人の日系人を含むペルー人が暮らしているのだ。すでに、経済協定での強い結びつきのある両国だが、「日本ペルー交流年」にとどまらず、日本という国が、南米や世界にむけて繋がるうえで、日系社会はそこにいく協力な磁力でもあり、開かれた扉だと考える。

こうした人と人のつながりを結びつけ、日本は経済復興の足がかりにしてはどうか。日本が持つ高いイノベーションとテクノロジー技術は、ペルーで求められ、それを拡大させる潜在的なモチベーションがあるのだから。


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