ペルー・日系人協会(APJ)の建物内にある「日系移民博物館」では、1月2日から2月28日にかけて、「Generación 64(ヘネラシオン64)回顧展」が開催されている。

1950年代から60年代にかけて、ペルー国内の社会的な変化に影響を受け、新しい政治の流れが生まれたが、その社会変容は大学で学ぶ日系人学生たちの政治的な意識を高めることになった。こうした学生たちが協会を作り活発な活動を展開していったのだ。

その中で、1960年にサンマルコス大学経済学部へ入学した45名の日系人学生は、高度経済成長を実現化している当時の日本へ視察旅行に行くという目標を掲げ「Generación 64(ヘネラシオン64)」を立ち上げた。

「Generación 64(ヘネラシオン64)」のメンバーにとって、日本行きは、戦後の復興を遂げた日本の実情を学び、実際の日本をペルー社会に教えることだった。そのために政治家や知識人たちを招き、活発な討論会やフォーラムを開催、さらに日本を知るための文化活動を行ってきた。

時が満ち、ヘネラシオン64の学生グループは、1965年12月12日、長い船旅を経て横浜へと降り立ち、初めて祖国の土を踏んだのだった。

我々が知るペルーへ移民した日本人たちの歴史は、艱難辛苦を乗り越えてペルー社会に、に日系人コミュニティーを築き、ついには初の日系人大統領が誕生したという輝かしいものだ。

しかし、その苦難の中にあるアメリカへの強制移住ということについては、あまり知られていない。

 

初期のころは、農地での就業を余儀なくされていた彼らも、第二次世界大戦がはじまる前には、事業を興して成功する日系人も少なくなかった。ところが、大戦がはじまると日本人に対する排斥の風潮から弾圧へと時代は進み、財産や名誉を奪われ、さらにはアメリカへ強制移住させられた人たちがいたのだ。ほとんどの人たちは不当に財産や地位をはく奪され、アメリカからリマに戻ることができなかった。

ある時、ペルーに本社を持つ国際的に活躍する日系人実業家が、こんなことを語っていた。

「ペルーの日系人の歴史を考えるとき、戦争前と戦争後で区別したほうがいい。戦前は移民の始まりで、これはゼロからのスタートだった。しかし戦後の日系人は、ゼロどころか、マイナスからまた生きていかなければならなかった」と。

そうした排斥を受けた日系人たちは、戦後もかつての痛みや恐怖を容易には、ぬぐうことができない。

また、戦争が終わった後も、日系人への差別は続いていた。たとえば国籍の問題がある。

国籍取得に関して出生地主義を取るペルーだが、日系人はペルー国籍を取ることが許されないでいた。

そのため、サッカーや自転車競技で活躍する日系人選手がいても、ペルーとして国際試合にでることができなかったという。

これに対して声をあげたのが、日系人の大学生たちだったのだ。

日系人として、ペルーの中で生きていくためには、沈黙を守るよりも、政治にも係わりを持ち、自分たちの活動の場を広げていこうとしたのが、1964年世代の意味で命名された「ヘネラシオン64」だ。

それまでだれも考えなかった、日本大使館にある日本を紹介するビデオや本を借りての勉強会を開いたり、当時のベラウンデ大統領に交渉して、大統領官邸を見学するなどのイベントを開いたりしたのだ。

時を同じくして、日本は戦後復興の象徴である東京オリンピックを開催している。

祖国日本は高度経済成長を成功させ、名実ともに国際社会に認められる存在になっていた。

政治フォーラムを何度も開き、政党党首たちに政治指針や、政治討論を行うなど活発な活動をしてきた彼らにとって、日本をその目でみてみようと思うのは、自然なことだったのだ。

偶然にも、現在天理大学名誉教授である上谷博氏が、サンマルコス大学に留学中だった縁で、ヘネラシオン64のメンバーたちは、日本行きを実現することになる。

上谷氏の協力の元、日系企業や天理教関係者などの支援を得て、13名のヘネラシオン64メンバー、トーマス・クダカワ、ビクトル・アリトミ、アントニオ・ヤマカワ、サムエル・マツダ、アルベルト・ワカバヤシ、ビンセント・ヒガ、ホセ・ヤギ、ベルナルド・マエゾノ、ロサ・フジモリ、アウロラ・シモオカ、エレナ・ヨシモト、バージニア・ヨザ、ジュリア・サノが、日本へと旅立った。彼らを乗せた飛行機は、1965年11月12日に、リマからメキシコへ行く。メキシコからバスでロサンジェルスへ。LAからブラジル丸に乗りサンフランシスコ、ホノルルに寄り、12月12日の朝10時過ぎ、横浜港へと到着した。

 

一行はその後、船で二日かけて沖縄へ行き、そこから鹿児島に行くと各地を巡り、東京まで戻ってきた。半年間の滞在中150か所以上で、会見を開きながら今のペルーの様子を日本人に説明すると同時に、交流を深めていったという。

日系人大学生の団体として、初めて来日した「ヘラシオン64」メンバーは、現在の天皇皇后陛下が、当時皇太子妃殿下の時、謁見している。

 

大役を終えたヘネラシオン64のメンバーは、ペルーに戻ると、彼らが作った若い日系人世代のミッションとビジョンは、想像以上に影響力を持つようになる。

ヘネラシオン64の他にあったペルー日系人大学生協会や、その後続くスペラシオンという活動グループなど、ヘラシオン64のやってきたことがきっかけで、その後の活動を活発化させていく。

 

そして、ヘネラシオン64の活動は、戦争でひどい経験をしてきた日系人たちに、悪夢を払しょくするきっかけにもなったのだ。彼らの行動が今でも尊敬されているのは、自分たちが与えられたものを社会につなげていくために、努力を怠らなかったことと、開かれた日系人社会になるため、身をもって行動したからだと考える。

 

またそれまで「頼母子講」という独自の金融システムを利用していた日系人が、金融機関を立ち上げたり、日系人専用の運動施設を持ち、ペルー日系人協会、県人会の活動が盛んになったのも、ヘネラシオン64の影響が大きい。

メンバーたちは、経済界での成功や、国会議員、駐日大使を務めるなど、その後目覚ましい活躍をしている。

ヘネラシオン64のメンバーたちが残した功績は、ペルーと日本の架け橋だけではなく、戦後のペルー日系人社会を、大きく変化させたことなのは間違いない。

写真上:ペルーから来日したヘネラシオン64メンバーの様子を伝える雑誌記事

写真中:当時の皇太子妃殿下と一緒に

写真下2点:移民博物館の展示から(ペルー日系人移民博物館写真提供)

取材協力:ビクトル・アリトミ


ABOUT THE AUTHOR: