ペルー・マチュピチュ村の初代村長は日本人だった‐知られざる日本人の歴史について講演

2月5日、東京広尾・駐日ペルー大使館にて、「マチュピチュ村の初代村長」と題して、野内シーザー良郎さんによる講演会が、同大使館内にあるマチュピチュ・ホールで開催された。

日本人が最も訪れたい旅行先として、一番に挙げられる人気観光地ペルー・マチュピチュ。15世紀、インカ帝国の遺跡として知られるマチュピチュは、1911年7月24日に、アメリカの探検家ハイラム・ビンガムによって発見された。

1895年に福島県安達郡大玉村で生まれた野内与吉氏は、裕福な農家の出身でありながら、ゴム景気に沸いていた南米で事業を成功させたいと夢を抱いて、24歳の時にアメリカ、ブラジルを経由しペルーへと渡る。それは大正4年、マチュピチュが発見された4年後のことだった。

講演者の野内氏は、この与吉氏の孫にあたる。1975年にクスコで生まれ、16歳で来日。働きながら高校、大学を出て現在は、旅行会社に勤務しながら、名古屋国際センターの「世界を語ろうマイスター」にも任命され、日本文化やペルーについて紹介する活動を行っている。

南米の中でも、ペルーは日本からの移住者をいち早く受け入れたが、当時の日本人やその後の日系人がたどった苦難の歴史は、現代の私たちにとって今では想像でしか分からなくなっている。

今ではペルーで約8万とも9万ともいわれている日系人たちは、さまざまな分野でペルー社会で活躍しているが、その影には、ペルーの中で人知れず貢献して自分の人生を重ねていった人たちがいるのだ。

野内与吉氏は、まさにそのような人物だった。

やっと世間がマチュピチュというアンデスの古代文明に目を向け始めたころ、クスコにあるFCSAという鉄道会社に勤務していた野内氏は、線路拡大工事が完成後、マチュピチュに暮らすようになった。

現地女性と結婚し、家庭を築いた与吉氏は、日本人の勤勉さと正直さを持って村のために尽くし、その人柄から多くの村人に請われて、初代村長として3年間、地域のために働いていた。また1935年には、この村で初めての本格的な木造建築ホテル「ホテル・ノウチ」が建てられたのだった。

与吉氏は、アンデス文明研究家の天野芳太郎氏とも親交があり、天野氏がマチュピチュを調査するときは、隅々まで知り尽くした与吉氏が同行。天野氏の研究に与吉氏は欠かせない存在だったという。

講演会場では、与吉氏の生まれ故郷、大玉村からも多く参加。昨年は与吉氏とゆかりのある人たちや有志たちで、野内氏とともにマチュピチュへと出向いたエピソードも紹介された。

与吉氏は、1968年に大玉村へと帰郷。その後クスコに戻り、1969年8月19日に長く波乱に満ちた人生に終わりを告げた。帰国して2カ月後のことだった。

また、会場では、岐阜県高山市の國島芳明市長が来賓挨拶を行った。高山市は、マチュピチュ遺跡発見100周年を機に、クスコのウルバンバ郡と姉妹都市提携を結び、今年の8月に最後の調印が行われる予定だ。飛騨高山の景色とウルバンバはよく似ていることから文化や観光面での交流を深めていくという。

与吉氏の歴史を通じ、日本とペルーの深いつながりに敬意を表すとともに、与吉氏のような人がいたという事実に、会場は深い感動に包まれた。また、野内氏の「祖父は私の誇りです」という言葉に、会場は温かい拍手が鳴りやまなかった。

 

写真上:会場で講演する野内氏

写真下:左より、野内氏、國島市長、エスカラ駐日ペルー大使

 


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